【タイの屋台飯と現実と俺が思うことと】 第5回 国民食クイッティアオの全て(2)

タイの国民食「クイッティアオ」について、前回は最も重要な麺について紹介した。しかし、クイッティアオが料理として成立するには麺だけではなく、スープの種類や調理法も大切な要素になってくる。
ただ、そんなクイッティアオの大切な要素を紹介する前に、なぜ国民食になったのか、タイでどう始まったのかを見ていきたい。スープができ上がるきっかけや、タイ人の好みがどういったものかを知るためにも、まずは歴史を振り返ってみるべきだ。
クイッティアオの最もベーシックなスープは豚骨や鶏ガラでとる透明スープ
ただ、クイッティアオの歴史は正確なところが分からず、調べるのに苦労するはめになってしまったのだが……。
歴史にこだわらないタイ人が知るはずもない
クイッティアオの歴史をいろいろと調べてみたわけだが、これが一筋縄ではいかなかった。
なにしろ、タイ人は歴史を振り返らない。過去のことに興味がなく、かといって将来のことを見据えているというと、そんなこともない。とにかく今を生きるのがタイ人である。
俺は取材で飲食店を訪ねることはしばしばあるが、タイ人経営店は創業年を気にしない。日本なら100年も経営していたら看板に書いてしまうだろう。タイの場合はこちらが聞くまでそのことについて触れない。実際、100年以上続く店はバンコクの西側、いわゆる旧市街にたくさんあるのだが、彼らはそのことをなんとも思っていない。先祖代々そんな感じなので、そもそも創業何年かなんて把握すらしていない。
そんなお国柄とあって、たかだかクイッティアオの歴史なんて知る人はいない。クイッティアオを生業にしている人でさえもだ。以前、東北部(イサーン)の玄関口ナコンラチャシマー(コラート)県に行った時、取材を兼ねて国鉄駅に立ち寄ったことがある。
ナコンラチャシマー駅前に展示されているドイツ製の機関車
その時、駅長にナコンラチャシマー駅の歴史を聞いた。タイ国鉄が開業して3年後の1900年12月にこの駅がオープンしていることは知っていた。あえて聞いただけだが、駅長は答えられなかった。仮にも国鉄職員は全て鉄道学校を卒業しているのに、だ。タイはそんなものである。
俺は最近、ベトナムが大好きで年に何回も遊びに行く。ベトナムにも米粉麺があり、有名な「フォー」もあれば、各地に特徴的なコメの麺がある。その中には南部の「フーティウ」も含まれる。コシがクイッティアオほどないが、どうにも名前が怪しい。
ベトナム南部の「フーティウ」はクイッティアオに酷似するが、麺にコシがない
いろいろと聞いてみると、このフーティウはメコン川を越えた先にあるカンボジアから伝来したとされるではないか。しかも、カンボジアでは「クイティウ」という名前だ。もろにクイッティアオとかぶる。
カンボジアに近いメコンデルタ。水上市場では麺類食堂の船もあった
ますますクイッティアオのルーツが気になるところ。インターネットでは情報の正否が判別しにくいので、俺は柄にもなく図書館に向かうことにした。
中華料理解説本に歴史が載っていた
タイとはいえ、図書館に行けばなんとかなるだろうと思っていた俺は、最初に訪れた国立チュラロンコーン大学の図書館でまず打ちのめされた。チュラロンコーン大学と言えば、タイ最高学府とされる教育機関である。それにもかかわらず、そこにあったクイッティアオ情報は全てレシピだった。その後、タイ国立図書館とバンコク都立図書館にも行ったが、結果は同じだった。
ただ、都立図書館でたまたま手に取った中華料理の本でクイッティアオのルーツなるものを見つけることができた。ご存知のように、中華料理は広東や雲南、四川などいろいろとあるが、クイッティアオはどうやら広東省にある潮州市が発祥の「潮州料理」が起源のようであった。
考えてみれば、タイへの中国移民の多くが潮州人である。タイ料理も潮州料理と似たもの、同じものがたくさんあり、潮州系移民に強く影響されているように見受けられる。
煮込み系のクイッティアオもあるが、これも中華料理の影響が強い
その潮州では米粉の麺が食され、それを「粿条」と書くのだ。この読み方はなんと「クエティオウ」だという。もう間違いなくクイッティアオは潮州からやって来たものだと考えていいだろう。タイ料理は一般的にはスプーンとフォークを使う。しかし、麺類だけは唯一、箸で食べる。これは中国から伝わってきたからにほかならない。
では、いつごろタイに入ってきたのかというと、これは諸説あって正確なところは分からない。しかし、アユタヤ王朝時代(1351~1767年)に既に国際貿易都市だった中部アユタヤには欧州やインド、中国、日本から商人がやって来ていた。その時に中国商人らが食べていたものがクエティオウで、それがクイッティアオに訛って伝わったとされる説が有力とされる。
クイッティアオをゆでる道具に中華風な雰囲気を感じる
ちなみに、中国にもコメの粉からつくった麺は各地にたくさんあり、一般的には「ビーフン」などとして知られる。ビーフンは漢字だと「米粉」と書く。中国語では、「粉」には既にコメからつくった麺という意味が込められているのだそうだ。
広まったのは戦時中だった!
おそらくアユタヤ時代にタイに入ってきたクイッティアオだが、俺には一つ疑問がある。タイ人はアユタヤ時代だけでなく、現代においても外国人を気軽に受け入れてくれるオープンさがある一方、「食」に関しては恐ろしく保守的なことだ。
そんなタイ人がクエティオウを容易に受け入れたとは思えない。今でこそ和食ブームのタイではたくさんのタイ人が日本料理店に足を運ぶが、ほんの10年ちょっと前は、例えばゴーゴーバーの女の子を日本料理店に連れていっても、何一つ食べられないというのは普通だった。濃い味のタイ料理に慣れたタイ人の舌では、外国の料理を受け入れることが容易ではない。
そこでさらにクイッティアオが国民食に至るまでを調べたところ、実は人工的に広まったことが分かった。それは現代タイをつくり上げたとされる政治家、プレーク・ピブーンソンクラーム元帥の政策だった。
クイッティアオはアユタヤ王朝時代、既にタイに伝来していたにもかかわらず、タイ人(ここでの「タイ人」は人種としてのタイ人、つまり「小タイ族」)には見向きもされなかった。ただ、コメの生産量の多いタイなので、いずれの道をたどっても自然発生的に米粉麺は登場していただろうし、中国商人の滞在で既にクイッティアオは人々の知る存在ではあった。
それが徐々にタイ人好みに改良され、タイ独自の味付けが始まっていく。これが要するに次回紹介していくスープの種類になっていくのだが、いずれにしても爆発的拡大はピブーンソンクラーム元帥の登場を待つことになる。
元帥は第2次世界大戦をまたいで何度もタイの首相になった人物。バンコクの有名スポット「チャトチャック・ウィークエンドマーケット」やタイの古典舞踊など、今のタイの文化や商業を支えるさまざまな支援をした人でもある。戦時中は日本と同盟を組んだのもこの人だし、晩年、亡命するはめになったが、その先は日本であり、亡くなったのも神奈川県の相模原市である。
そんなピブーンソンクラーム元帥が1942年11月7日、
「わが兄弟たちにはぜひクイッティアオを食してもらいたい。クイッティアオは栄養に富み、味も酸味、塩味、甘みがある。タイ国内で材料がそろい、価格も安く、どこにでもある。なによりおいしい」
という語りから始まる声明を発表した。当時は戦時中のインフレでコメの価格が高騰していたのが理由で、クイッティアオを推奨したのだ。この時に国民が1人1日1杯、クイッティアオを食べれば、毎日およそ90万バーツの経済効果があると、ピブーンソンクラーム元帥は主張。当時のクイッティアオは1杯5サタンだったようなので、現在のクイッティアオを40バーツと考えると、90万バーツは概算で今の約7億バーツ(約21億円)相当と考えられる。
ピブーンソンクラーム元帥は戦後、国民の現金収入のために各県に週末市を設置させた。その一つがチャトチャックになっている
元帥はこの時、クイッティアオにもやしを入れることも提案。今では当たり前の具材だし、元々潮州のクエティオウにはもやしは入っていなかった。もやしの推奨によってタイ農家の支援効果もあったし、タイの麺料理の標準的な具材にもなった。
潮州料理の米粉麺との違いの一つはもやし。どの店でも大量に使っている
こうしてクイッティアオはタイの国民食になったわけだが、元々は政策で、意図的に広まったのだと思うと、なんだか不思議な気持ちになるのである。(つづく)
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